2016年7月9日土曜日

台湾とニッポン

台湾のニッポン

台湾でもっとも重要な神社と位置づけられていた台湾神社があった地であり、そこには「台湾平定の英雄」として北白川宮能久親王が祀られていたことを知ったら、彼らはどう感じただろうか。

 神社の傍には動物園があって、台北の子どもたちは遠足といえば、まず台湾神社にお参りし、その後で動物園に行くというのが定番だったという。もしもそんな話を聞いたら、なぜ、と思わないだろうか。

 なぜ台湾に日本の神社が建っていたのか。台湾の子どもたちが、どうして遠足の度に、その神社にお参りしなければならなかったのか。北白川宮能久親王という人は、どんな理由で台湾で祀られる必要があったのだろう。第一、台湾「平定」とは何のことなのか。

 円山大飯店一つとっても、実はそれだけの「なぜ」がある。台北という都市、さらに他の地域、台湾全体へと範囲を広げていけば、それこそ膨大な数の「なぜ」が溢れている。

 ただし、そういう視線を持たなければ、「なぜ」は見えてはこないだろうし、たとえば町並みの中に昔の日本「そっくり」に見える建物を見かけたとき、ふいに「なぜ」が頭を過ぎることがあったとしても、そのままあっさりとやり過ごしてしまうに違いない。

台湾はかつて日本の植民地だった

 どうして台湾にはそんなにも「なぜ」が多いのか。答えは一つ、台湾がかつて五十年間、日本の植民地だったからだ。この事実を知らない人が、あまりにも多い。仕方がないのだ。戦後の学校教育では、ほとんど教えてこなかった。

 もしかすると「植民地」という言葉そのものが半ばタブー視されていたのだろうか、どうしても必要な場合は「かつて統治時代に」などといった、子どもにはまるでピンと来ない遠回しな表現ばかりが使われてきた感がある。

 日本は第二次世界大戦で無条件降伏するまでの五十年間、台湾を植民地支配していた。きっかけは日清戦争に勝利したことだ。日本は、それまで清の支配下にあった台湾を割譲され、すぐさま大量の兵を送り込んだ。抵抗する人たちは容赦なく征伐し、マラリアなどの疫病と戦いながら、やっとのことで島を平定した。台湾神社に祀られていた北白川宮能久親王は、そのとき近衛師団長として真っ先に台湾上陸を果たし、そのまま台湾で生命を落とした皇族だった。

 台北をはじめとして、中国風の古い城壁に囲まれた小さな町が点在するだけだった台湾に、日本は台湾総督府を置いて、それまで細々としかつながっていなかった鉄道を全島に敷き、新たな道を拓き、城壁を取り崩して街の衛生環境を整え、産業を興していった。説得に応じず、あくまで帰順しない人たちは容赦なく討伐した。

 明治・大正・昭和と、欧米列強がアジア諸国に乗り出してきた時代、その力に屈することなく日本という国を守り続けるために、日本も死にもの狂いで近代化に励み、力を蓄えるより他になかったからだ。だから、台湾にも豊かな島になってもらわなければならなかった。

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